習志野市を拠点に活動する企業・団体・個人へスポットを当てたインタビューを通して、この街の魅力を伝える連載インタビュー企画「それいけ!習志野」。現在の事業や活動の内容、それに至るまでの経緯をはじめ、今後の展望や地域で活動する中で感じる習志野の魅力、未来への期待などのストーリーを届ける。
今回は、現在53歳で市長として15年目を務める宮本泰介習志野市長に、若くして市政に携わった背景と、習志野市の課題や展望を聞いた。
宮本泰介(みやもと・たいすけ) 習志野で生まれ、関西で育ち、再び習志野へ
航空会社に勤めていた父の仕事の関係で、羽田空港と成田空港の中間地点である習志野市(屋敷)に居を構えた宮本家。宮本市長は1973(昭和48)年1月に国立習志野病院(現・済生会習志野病院)で産声を上げた。
屋敷小学校入学直後の夏休み、父の転勤で兵庫県西宮市へ。「東京から来た」「巨人ファン」というレッテルを貼られる中、阪急電鉄沿線に住んでいたこともあって、当時のプロ野球チーム阪急ブレーブスの子ども会に入会。当時は福本豊、山田久志、アニマルレスリーといった有名選手が在籍していた。住んでいたマンションには阪神タイガースの選手もおり、夜中にロビーで素振りをする姿を目撃したこともあった。
通った小中学校の卒業生には、現在の阪神タイガース4番打者・佐藤輝明選手がいる。西宮市と言えば甲子園球場だが、在校当時も、市内の学校連合体育大会の会場だったそうで、駆け回った思い出は宝物だという。中学2年時に習志野市に帰郷し、第六中学校を卒業、八千代松陰高校に入学した。
挫折が導いた「4年遅れ」の大学生
高校2年の時、エアラインのパイロットを志望していたが、非常に難しい英語、数学、物理の授業を安易に選択した結果、成績は大きく墜落。大学受験は難航を極めた。
その後、志望大学を諦め、都内の専門学校に通うも中退。挫折感と焦燥感にさいなまれながら自分探しに迷走し、八千代国際大学(現、秀明大学)に入学したのは22歳だった。
大型二種免許が開いた新しい世界
現役から4年遅れの入学に、「人と違う挑戦」を試みる中、当時、受験資格が21歳以上の大型自動車免許に着眼、幕張の免許センターへ。旅客バスも運転できる大型二種を受験し、技能試験に挑み続けて合格した。この免許を活用して経済的な自立も果たした。
「振り返れば私の転機はこの免許証を手に取った瞬間。初めての特別な達成で、視界が一気に明るくなり、ここで性格が前向きになりました。人生何とかなるかも、と。この勇気で選挙に出られたのかも(笑)」
大学時代は熱い研究心を持ち、タクシーやバスの運転手のほか、近くのゴルフ場でキャディーなども経験した。早朝から深夜まで幅広い世代や多様な分野と接した貴重な4年間だった。
選挙の手伝いで芽生えた「政治への関心」
さらに、政治経済学部だったことから選挙や政治活動の手伝いも経験。しかし、携わった選挙は落選が多かった。
「悔しい思いの連続。ただ、経験の中で候補者の自主性や主体性が結果に大きく影響する傾向を感じました」
大学を卒業する年の2月、とある市議会議員選挙の手伝いをした。しかし、これまでの経験から自分の意見を伝えるも「お前みたいな学生に何が分かる」と何度もはじかれ、半ば戦力外に。この時、悔しさと憤りの中で沸々と湧いてくる気持ちがあった。そして「自分も選挙に出られる年齢。地元で最も身近な政治家を目指します」と事務所を離れた。
これが、政治家を志すきっかけとなった。
初めての選挙戦
「自分には何もないけど、『思い』があります」
金融機関で借りた90万円を元手に、あえて孤立無援で「全部自分でやる選挙」に臨んだ。「ジョイフル本田で素材を買い、DIYで加工し、シールを切り張りして看板を作りました。事務所は自宅の車庫で、選挙期間の7日間のみ。電話番もなし。けれど事務作業がない分、集中して1人でも多くの人に会いました」
結果は仰天の3位。無名の26歳、驚異的な初当選だった。
市議会での「活動」
市議会は習志野市の縮図。人生の先輩ばかりの中、全てに敬意をもって積極的に動いた。
「実は私、宴席は好きですがお酒が全く飲めません。このことに劣等感があり、その分、送迎役を進んでやっていました。若かったし、タクシー運転手の経験で道には詳しい。今でも市内ならどんな状態でも最短時間で行けますよ」
「小学生から高校まで放送委員をやっていて、機材やそれを使うことが好きなんです。イベント等での設営や運営役には全く抵抗がない。今でもいろいろな会場で進行が気になってしまいます(笑)」
人に喜んでもらいながら、自分らしく明るく行動してきた。しがらみがない中、市民と市役所とのパイプ役に徹して「まちづくりに関わること」に純粋に入り込んだ。
結果的に3回の市議会議員選挙ではいずれも上位で当選。そして2011(平成23)年に前市長の勇退に伴う市長選挙で初当選し、現在に至る。
「とにかく、全ての皆さんのおかげです」
自治体の歴史を知ることの重要性
「習志野市の最大の利点は交通の利便性。でも欠点も交通の利便性なんです」
市内から市外に移動する人から見れば「コンパクトで交通が便利な街」。一方、市内間だけを移動する人にとっては「道が狭く坂も多い交通が不便な街」。
市長が最も頭を悩ませている課題の一つだ。
習志野市役所市庁舎
習志野市は1970年代、革新市長会の会員でもあった吉野孝市長の下で「大きな政府(行政)」が展開された。市内16ある小学校区にほぼ1つずつ、最終的に15の幼稚園が市営で設置され、当時は先進的で全国から注目を集めた。埋め立てられた海浜地区には瞬く間に住宅が建設され、人口も急増した。
「当時の親世代は高齢化し、当時の子どもは市外の新興住宅に転出傾向にあります。今は共働き世帯が増え、ニーズは保育所という状況下で、保育所機能と幼稚園機能を統合した「こども園」を市内7カ所に設置しました。何倍も人口が多い千葉市や船橋市でも、これだけ多くの市営の教育保育施設はありません。自治体の特徴はその街の歴史と絡んでそれぞれあります。一概に比較することはできませんが」
「そもそも日本全国の都市計画は戦後を受けて1960年代に現行法が始まり、その計画に基づいた当時の市町村政の影響は今でも色濃く残っています。鉄道や高速道路、市町村道などが50年以上前の計画をもとに議論されている事実。これらはあまり語られません」
これからの習志野~地域コミュニティーのさらなる構築
今後のまちづくりで掲げるのは「地域コミュニティーの再構築」。高齢化が進み少子化も続く中、行政職員も含めて働き手が減少していく。
「極端ですが『救急車を呼んでも来ない』といった事態を避けるためにも、最低限『向こう三軒両隣』の関係性を促進していきたい。地域の共助体制をソフト面でもハード面でもしっかり促進・啓発していく。それができれば、経済循環も無理なくついてくる。相乗効果が得られれば、着実に発展していくと信じています」
習志野市のご当地キャラクター「ナラシド♪」が描かれた車両。
習志野市は人口密度が県内54市町村中で3番目に高く、コンパクトで行政効率が高いと評されることが多い。しかし、全国的な課題に加えて公共施設の多さが今後の財政を悩ませる。
「習志野市の面積や財政規模から考えると、他市に比べてかなり公共施設が多く、施設にはハードにかかる維持管理費用はもちろん、人件費などの運営経費が合わさって毎年かかります。一方、始めた施設や事業は簡単には止められないので慎重な検討が必要です」
直近の課題である習志野文化ホールも、1970年代の複雑な経緯によって悩みが多いが、習志野市の表玄関、JR津田沼駅前のにぎわいのために必要な施設と位置付けている。
明るいニュースが支えるまちづくり
インタビューの最後に、習志野経済新聞のサポーターになった理由を尋ねると
「地域の明るいニュースしか取り扱わないという強いポリシーに共鳴しているんです。住民や関係者が前向きになる話題を深掘りして詳しく伝えていただけているのは非常に貴重です」
個人としてサポーターになり、市としてもバナー広告を掲載するなど、互いに協力している。
「多様化の時代では互いに知りえないことも出てくる。協力して情報を共有していくことが安心や共感にもつながっていくのだと思います」
最後に読者へのメッセージ
「習志野市は紛れもなく住みよい街です。全国屈指だと思っています。いろいろありますが、必ず乗り越えます。未来に向かって、堂々と前進、好きなことをやっていただければと思います」

その言葉には、回り道をしたからこそ見えた景色と、その体験から生まれた人柄と地元への深い愛情、そして確固たる信念が感じられた。