夏の甲子園大会で2回の優勝実績を誇り、高校野球の名門として全国に名をはせる習志野高校(以下、習高)野球部。強豪校がひしめく「戦国千葉」において、1957(昭和32)年の創部以来、「雑草の如(ごと)く逞(たくま)しく」の精神で、いつの時代も存在感を示し続け、多くのドラマを生んできた。
歴代の監督や選手らへのインタビューを通して、同校野球部の歴史や伝統を紐解くとともに、習志野市との関わりを紹介する。
第2回は現役時代に投手として活躍した、白井市長の笠井喜久雄さんに話を聞く。
――野球はいつから始めたのですか?
小学校4年生くらいです。当時は今みたいにサッカーもあまりはやっていなかったし、ある程度スポーツができて運動神経のいい人は野球に走りました。ちょうど巨人は長嶋茂雄さん、王貞治さんが活躍していて、憧れました。『巨人の星』のアニメもテレビでやっていて、必然と野球の方に行きました。
――習志野高校を選んだ理由を教えてください。
白井中学校で野球をやっていて、甲子園に行きたいという夢がありました。当時、強かったのは銚子商業と習志野と千葉商業でした。これらの学校に入学できれば、3年間で一度くらいは甲子園に行けるだろうと考えていたのです。習高がその中で一番近いという理由で、進学を決めました。
――白井中学野球部は強かったのですか?
印旛郡大会でも1回戦負けの弱小チームです。ポジションはピッチャーで、自分なりにチームの中ではそこそこ自信があったのですが、習高に入ったらやはりレベルが違うし、練習もきついし、上下関係も厳しいし、本当に驚きました。これはもう絶対に3年間続けることは難しいだろうなと思っていました。第19期で最終的に残ったのは23人ですが、最初はその倍以上はいたと思います。ちょうど春の選抜高校野球大会に出場したばかりですから、多くの選手が集まったのです。
当時、中学の野球部の顧問には別の高校に行った方がいいと言われました。「この中学のレベルでは習高では絶対にやっていけない」「途中で断念してしまう」「近くの高校で野球をやった方がいい」というような話をよく面接でされました。それでも習高を選んだのは、自分の力を過信した部分があって、行けばなんとかなると思っていたのです。中学3年の時に選抜高校野球大会をテレビで見ていたので、習高のアイボリーのユニホームにも憧れがありました。
――夏の甲子園で優勝した1975(昭和50)年に入学しました。
全国優勝は衝撃的でした。あのチームは強かったです。投手の小川淳司さん(東京ヤクルトスワローズゼネラルマネジャー)を中心に、非常にまとまっていました。千葉県大会を勝ち進んで甲子園出場が決まり、1年生の私も応援に行かせてもらいました。あれよあれよと決勝に進出して、新居浜商業に5対4でサヨナラ勝ち。序盤は負けていましたが、最終的に下山田清さんのサヨナラヒットで全国優勝を勝ち取ったのです。感動しました。
本当に強いチームで、練習では春以降に負けた記憶があまりないです。その代わり、練習も厳しかったです。石井好博監督もまだ20代中盤くらいで体がきくし、情熱もあったので。練習時間も長いし、量も質も濃かったです。当時はナイター施設がなかったので、明るいうちは普通の練習をやり、それ以降は個人でいろいろと練習しました。1年生の時はいつも終電で白井の自宅に帰っていた記憶がありますね。
――学生時代の習志野市の思い出は何でしょうか?
合宿所がなかったので、夏の大会などの時は習志野市の公民館に宿泊していました。昔は周りに銭湯があり、みんなで行った思い出があります。そうすると、市民の方々が声をかけてくれて、温かかった。全国優勝したばかりだったので、すごく盛り上がっていたのです。
――一番思い出に残っている試合を教えてください。
私たちの代は習高史上最も弱いチームではないかと言われたのですが、夏の千葉県大会で決勝まで行きました。1977(昭和52)年の第59回大会です。千葉商業に3対1で逆転負けしました。もう甲子園に行けるのかなと思っていたので、ああいう負けた時が一番記憶に残りますね。とは言え、当時は負けて悔しいという思いはあまりなかったです。練習が厳しいから、早く自由になりたい、海に行きたいとか、そういう感じでした(笑)。でも、後からじわじわと甲子園に行っていれば人生が変わったのかなと考えることもありました。変わったからどうなのかという気もしますが。
――高校卒業後は中央大学に進学されています。野球は大学以降も続けたのですか?
中央大学の準硬式野球部に入部しました。本当は違う大学に決まっていたのですが、急きょ、石井監督が中央の準硬の方がいいよと言ってくれて方向転換したのです。その後、社会人でもう少し野球をやってみたらという話もありました。しかし、自分の中で限界を感じていたし、違った世界で自身の力を試してみたいという思いもありました。郷土愛もあったので、当時の町役場に入りました。
――卒業しても習高野球部のつながりはあるのですか?
はい、先輩後輩の関係が深いんです。現役時代は上下関係が厳しくて縦の世界なのですが、卒業してみると、みんなすごく母校の卒業生を大事にしてくれます。選挙をやると、つくづく思います。選挙は2回やっていますが、常に石井監督が初日の応援に来てくれました。もう80歳くらいになる1期生の小関元OB会長も来てくれて、いろいろな話をしたり、記念品をもらったりして、今も市長室に飾っています。
第1回のインタビューに登場した椎名勝さん(習高野球部元監督)や巨人の阿部慎之助監督のお父さんの阿部東司さんがコーチとして教えてくれたのですが、厳しかったし、怖かったです。でも、今は本当に優しくていい先輩ですね。椎名さんは千葉県大会の決勝で負けた時、エース投手と私の2人を自宅に呼んでくれました。そこで「お疲れさま」と言ってくれたのが印象的です。阿部さんは面倒見がいいし、男らしい先輩です。市長になった時も「頑張ってくれ」とねぎらいの言葉をもらいました。ただ、当時の怖いイメージがあって、やはりそれは今でもなかなか拭いきれないのですよね(笑)。
――練習がつらくて、辞めたいと思ったことはなかったのですか?
毎日辞めたいと思いましたが、ある意味では白井という故郷を背負ってきているので、親や地元の人たちの期待に応えたいという気持ちがありました。試合に勝っていくと、同級生やさまざまな人が応援してくれるのです。それから、仲間です。同じように部活をやっている仲間たちとのネットワークや思いやりに支えられました。
――選手としての自身の特徴を教えてください。
背番号は10番だったり11番だったりして、3年の夏は17番でした。2番手くらいの投手です。個人的には、そのポジションでよかったと思っています。エースは試合を作る中心で、レギュラーたちは試合に勝つことが最優先です。でも、補欠のように中間的な立ち位置にいると、いろいろなことが耳に入ってくるし、いろいろなことが調整できます。レギュラーの気持ちも分かるし、ベンチに入っていない人たちや、1年生、2年生の気持ちも分かります。だから、重宝されました。恐らく、監督はプレーというよりもそういう部分を評価して、私をベンチに入れたのだと思います。
――強いチームはレギュラーの力だけではなく、部員全員で作り上げるものなのですね。
市長になって、野球に例えて組織論を話すことがあります。野球は9人で戦って、1番から9番までそれぞれ役割と個性があります。もっというと、ベンチに入っている人もいるし、入っていない人もいます。全員でこの白井市の組織を強化するのです。みんなが4番バッターだったら、絶対にそんな組織は良くならないし、一時はうまくいったとしても必ず間違いやミスが起こるのではないかと思います。多種多様な人たちがいて、彼らをうまく使うのが監督である市長だし、コーチ陣である部長がしっかりと方針をつけて強化するということです。常に、野球のモードで物事を見てしまいます。ただ、一つ欠点があって、運動選手ですからやはり情に弱いんですよね。非情になれないのです。そこが勝負師としては一番の欠点ですよ(笑)。自分の中ではプラスだと思っていますが。スポーツで皆さんに大事にしてもらって、成長させてもらった恩返しですよね。非情にはなかなかなれないです。野球は生き方に大きな影響を与えました。物の見方、考え方、仲間を思う気持ち。習高野球部の3年間のお陰で、今の私があります。
――今の習高野球部のメンバーにメッセージをお願いします。
現役時代は3年間しかありません。その中でレギュラーを勝ち取ったり、甲子園を目指したりするわけです。しかし、それはあくまでも3年間の話であって、その後の人生の方が長いですし、大切です。礼儀や先輩後輩との関係、チームワークなど、野球で学んだことを糧にして、社会で活躍してほしいです。最終的には社会人としてレギュラーに、エースになってください。
――今後、白井市の目指す姿を教えてください。
成田空港の拡張、北千葉道路、豊かな緑、災害に強い土地など、伸びしろやいい要素がたくさんあります。そうした利点を生かした白井独自のまちづくりをしたいです。また、時代に合った新しいコミュニティーを目指しています。今までのまちづくりはどうしても人口増加にともなって都市空間を先に整備し、人の動線やコミュニティーを後から作ってきました。しかし、これからの時代は人のコミュニティーを作りながら、まちを描いていくという発想です。具体的には、自然の中にまち空間を作りたいです。次々と家を建てるのではなく、緑の中にまちを形成し、その中でしっかりと人のつながりも育てていくというビジョンを持っています。
――笠井市長、ありがとうございました。