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習志野高校野球部物語(1)全員野球でつかんだ甲子園 元監督・椎名勝さん

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 夏の甲子園大会で2回の優勝実績を誇り、高校野球の名門として全国に名をはせる習志野高校(以下、習高)野球部。強豪校がひしめく「戦国千葉」において、1957(昭和32)年の創部以来、「雑草の如(ごと)く逞(たくま)しく」の精神で、いつの時代も存在感を示し続け、多くのドラマを生んできた。

 歴代の監督や選手らへのインタビューを通して、同校野球部の歴史や伝統をひもとくとともに、習志野市との関わりを紹介する。

 第1回は監督として2001(平成13)年夏の甲子園大会に導いた椎名勝さんに話を聞く。



椎名勝さん
習志野高校野球部の主力として1972(昭和47)年夏の甲子園に出場。大学卒業後は津田沼小学校(津田沼4)に勤務。習志野市の各中学校の野球部顧問として数多くの県大会優勝など指導者としての実績を残し、2000(平成12)年に習志野高校野球部監督に就任。翌年、夏の甲子園大会でベスト16に導く。2023年3月まで袖ケ浦公民館の館長を務め、現在はオーエンス(谷津公民館)で相談役として活躍中。

習志野高校野球部への憧れ

――椎名さんご自身も習志野高校野球部の出身ですが、目指したきっかけは何でしょうか?

 私は1955(昭和30)年生まれです。習志野高校は1957(昭和32)年の創設で、1962(昭和37)年に甲子園に初出場し、1967(昭和42)年に全国優勝。当時、千葉県の強豪校といえば銚子商業、千葉商業、成東、そして手前みそですが習志野でした。その4校の中では習高が一番歴史が浅いです。

 香取市の出身なので、子どもの頃は猛烈に強い銚子商業を見て、「絶対にあそこで野球をやるぞ」と思っていましたが、12歳の時に転機が訪れました。広陵(広島)を破って全国優勝した習高の映像をテレビで追っかけていると、銚子商業と違った魅力に気づいたのです。銚子商業は故斉藤一之監督による洗練された野球の型があって、強いけど、どの打者もバットを短く持って同じ構えをしている。一方で習高の打者には個性があり、当時の私からすると、伸び伸びしているように見えました。

――個性を生かす野球の強みは何でしょうか?

 さまざまなタイプのピッチャーと対戦する中で、9人が同じタイプのバッターだと対応できない場面も出てきます。しかし、打線として考えた時は、いろいろなタイプのバッターがいれば、対応できる可能性が高くなります。それが私自身も選手として感じたことだし、監督としても指導の根底にありました。第一に長所を伸ばすこと。第二に欠点を修正すること。それが習高野球部の伝統であり、文化だと思います。

選手として出場した夢の甲子園

1971(昭和46)年 習高入学

――入学当時の練習で記憶に残っていることはありますか?

 毎日監督に怒られていました(笑)。周囲に泣き言を漏らすと、「期待されているからだぞ。栗源町(現香取市)からこっちに出てきたのだから、そんなことでくじけるな」と励まされました。泣きながらバッターボックスに立ったこともあります。1年の秋、新人大会で4番打者を任されました。同級生に掛布(掛布雅之さん)もいて、先輩たちもいる中での4番です。当然、中軸ですから打率・打点はもちろん、いつも長打を要求されました。新人大会の後、関西遠征に行き、近大付属や興國(大阪)と試合をしました。今でも忘れません。山本球場での近大付属との最後のゲーム。監督に叱咤(しった)激励され、涙ながらにライトのポジションにつきました。すると、センターの先輩が「気にすんな!」と声をかけてくれました。しかし、ベンチに戻ると再び監督から「ホームランを打ってこい」と要求される。しかも、自分の前に打席に立った掛布がホームランを打ちました。それで、思いっきり打ったのですが、レフトフェンスの手前で落ちました(笑)

――高校2年の時、夏の甲子園に出場しました。当時、習志野の街はどんな様子だったのでしょうか。

 習高は創部5年目に甲子園初出場、その5年後に全国優勝しているので、さらに5年後のジンクスがあるのでは、と1972(昭和47)年は「行けるぞ」という勢いがありました。当時、現在の習志野市役所の場所に校舎があり、元消防署の場所にグラウンドがありました。その辺りが高台になっているため、市民は土手から習高のグラウンドを見ることができたのです。ライト側はうんと短くて、レフト側は広い、長方形のグラウンドでした。受験した時、専用球場がないこともそうですが、バックネットがないことにも驚きました。

 そんなわけで、応援してくれる市民がたくさんいて、「土手クラブ」と命名されました。全国優勝しているので野球熱は市民の間でもものすごく高い。今では「音楽のまち習志野」ですけど、当時は「スポーツのまち習志野」でした。

甲子園球場で打席に立つ椎名さん

――1967(昭和42)年の全国優勝は「ならしの」の地名を有名にしたと聞いたことがあります。それまでは「しゅうしの」と間違われることもあったとか。

 関西遠征に行って習高と書いたジャンパーを着ていると、「しゅうこうってどこの学校?」と地元の人たちに聞かれるのです。ところが、「習志野高校です」と言うと、みんな知っている。それくらい1回目の全国優勝のインパクトが強かったのだと思います。私が監督の時も、広島遠征で広島商業とか如水館、広陵と3日間試合しましたが、相手が習高ということで、少し引いているような印象でした。広陵に勝利して初優勝を決めていますし、1975(昭和50)年の甲子園、小川淳司さん(東京ヤクルトスワローズゼネラルマネジャー)が投手で全国優勝した時も、準決勝で広島商業に勝っていますからね。2001年の甲子園でも、四国勢の尽誠学園(香川)や明徳義塾(高知)を破っているので、そういう目で見てくれるのかもしれませんね。

小中学校の教師として学んだ子どもとの関わり方

――プロ野球選手を目指している中で、18歳の時に右目をけがしたそうですね。

 高校3年の秋、友人に誘われて軟式野球の試合に出場しました。ホームランを打とうとバットを思いっきり振ったらファウルチップとなり、軟式のボールが楕円(だえん)形に変化して目に飛び込んできたのです。手術も受けましたが、視力は回復せず失明しました。落ち込みましたが、     良きライバルでもあり仲間であった掛布が阪神タイガースに入団することが決まったのです。私は3日で気持ちを切り替え、指導者を志望するようになりました(笑)。

高校卒業後、東海大学に進学。津田沼小学校(津田沼4)の教論に

 3年間で教師としてのイロハはもちろん、子どもに対する関わり方など多くのことを学びました。「学び方を学ぶ体育指導のあり方」という研究主題の下、津田沼小学校は体育を中核とした教育活動を行っていました。他の教科をないがしろにしているわけではなく、満遍なくやる中で、特に体育に力を入れていたのです。この「学び方を学ぶ」ことは子どもたちにとって大切で、将来、壁にぶつかった時に学んだことを用いて解決する力を育みます。野球でも応用できます。打てないスランプに陥ったら「なぜ打てないのか」という疑問から解決策を見いだし、その技術を身に付けるために工夫し、努力するわけです。

――その後、習志野市立第二中学校、第五中学校、第三中学校の野球部顧問を歴任し、全国大会準優勝をはじめ、数多くの県大会優勝などの輝かしい実績を残していますね。

 中学校の教師となり「よし、やっと野球指導ができる」と思いました。しかし、小学校で学んだ大事なことを忘れて、「勝つぞ!」という気持ちが先行してしまい、上から目線になっていました。成果は出ましたが、力ずくの指導でした。監督の「自分が勝ちたい」では一方的な押しつけになります。私は監督である前に教師であり、子どもの教育と野球の指導はつながっています。もしも、いきなり高校野球の監督になっていたら、教育観や指導観は違っていたと思います。きっと自分が中学、高校、大学生当時の指導者に教わったことしかできないでしょう。すごくラッキーだったのは、高校野球とかけ離れた小学校という教育の場で、子どもに対して要求する前にどんな配慮をしなければならないのか、気が付けたことです。学校での教育や、野球指導の根本にある、子どもに対する見方や考え方を先輩教師や子どもから学びました。

全員野球でつかんだ夏の甲子園大会ベスト16

2000年、習志野高校野球部監督に就任

――習高野球部の監督になり、どんなチームを目指したのでしょうか?

 先輩たちが築き上げてきた歴史と伝統を受け継ぎつつも、今の子どもに合った指導を工夫し、伸ばし、育て、甲子園大会に出場することが目標でした。そのために「真の全員野球」を心がけました。強豪校では、3年間球拾いで終わることもあります。しかし志を持って入学、入部した生徒を大切にしたい。だからグラウンド整備・用具当番なども、先輩後輩関係なく全員で行うようにしました。

――100人以上の部員で「全員野球」をするために、取り組んだことや工夫を教えてください。

 普段の練習でも試合でも、平等に場と機会を与えました。練習は効率よく実施しているプロ野球の練習方法を研究し、打撃、守備、走塁などの練習を複合的に組み、遊んでいる部員がいない状況を作りました。他校との練習試合でも3チームを作り、私、部長、副部長が監督で、それぞれ40人近くを振り分けます。大体2試合はやるので、最初の試合はレギュラーが中心で、次の試合は別の9人を起用し、6回で全取っ換えすると、40人近くが出場できます。レギュラーで出場した部員も球拾いやグローブ渡し、水くみをするわけです。そうなると「球拾いで3年間終わった」ということはなくなり、「チャンスをもらったけど、自分の力が及ばなかったのでレギュラーになれなかった。でも3年間頑張った」と言えるようになります。指導で大切なことは、平等に場と機会を与え競争させることです。

――平等だから、悔いが残らないというわけですね。それなら最後の夏の大会でベンチに入れなくても、全力でスタンドから応援できそうです。

 夏の大会前、3年生にはA4サイズの白紙を渡し、記名させて「自分が考える20人」を書かせます。すると背番号のズレはあっても、ほとんどが私の考えるメンバーと同じです。その20人はみんなが認めるレギュラーで、下級生の名前も入っています。監督にとって一番重要なのは一枚岩の形成です。ある講演で「チームが同じベクトルを向くためにはどうすればいいか」と質問されたことがあるのですが、練習そのものが答えだと思っています。

――翌年には夏の甲子園でベスト16の成績を残しました。どんな生徒たちだったのでしょうか?

 習志野市内の生徒も多かったですし、中学の教え子もいました。商業科は全県1区なので、遠方からでも受験できます。距離的には銚子商業や成東を目指すような子も習志野に来てくれました。私の指導方針に共感してくれた中学の監督たちが習高を勧めてくれたことも大きかったです。監督が変わり、それまでとは異なる部分もあったかと思うのですが、部員たちは一丸となって「真の全員野球」を追求し取り組みました。新しいやり方で甲子園に行くことが目標になり、キャプテンの梶岡(梶岡千晃さん)も「真の全員野球で勝ちたい。甲子園に行きたい」と言ってくれました。

夏の甲子園、千葉大会優勝時の胴上げの様子を撮影した写真(撮影=2001年)

 

夏の甲子園・千葉大会で優勝した時の写真(撮影=2001年)

習高野球部員と寝食を共にした20年

――自宅が遠方にあり通えない生徒を預かって、一緒に生活していたそうですね。

 大学生の頃から習高のコーチをしていたのですが、4年の時にこの生活スタイルが始まりました。新卒で津田沼小学校の教員になり、翌年は結婚して、それから子どもも生まれましたが、20年間継続していました。結構な人数がいて大所帯なので、家族旅行はほとんど行かなかったですね。甲子園に出場すると家族が来るので、それが旅行です。友人が心配して、オフシーズンに旅行の行程まで作ってくれたこともありました。

――奥さんの理解もあったのですね。

 妻も習高の同級生で、膝のけがもありソフトボール部のマネジャーをしていました。ですから慣れていて、賄いを作ったり、部員たちのメンタルケアや生活指導までしたり、彼らがもらってきた背番号を縫うのが楽しみというくらい、親代わりが大好きなのです。

―お子さんたちはいかがでしたか?

 日々、野球尽くしだったので、娘たちに「海を見たことがない」と言われたことがあります。長女が小学3年、次女が1年の時です。夕方から夜にかけて、習志野から片貝海岸まで車で行き海を見せたら、喜んでいました。小さい頃から野球部の生徒たちと一緒なので、息子は彼らの練習が終わると、「お兄ちゃんたち」の壁当てをまねして毎日のようにボールを投げていました。

――息子さんが習高野球部に入部することは必然だったのですね。

 ずっと親しんでいたから習高しか知らないのです(笑)。息子が進学を決断する時、私は「他にも選択肢があるのではないか」と言ったのですが、なかなか折れません。「俺が習高で監督をやることになったら、お前の力が他の生徒と同じだった場合は、お前を使わずに他の生徒を使うのだぞ」と話しても、「それでも習高に行きたい」と決意は変わりませんでした。入部後、部長は「どうして使わないのですか。使ってくださいよ」と言うのですが、周りを納得させることができる数字の根拠があったら使うと決めていました。1年の秋になり、練習試合の成績や打率、足の速さなど複合的なデータを取り、掲示すると、突出していました。それで2年から初めてベンチに入れたのです。誰もが認める働きをしてくれました。3年間が終わったら、元通りの親子です。息子はその後、大学で野球部のキャプテンを務めました。

――20年に及んだ部員との合宿生活をやめたきっかけは何でしょうか。

 習高野球部の監督になったからです。監督をやるからには、特定の生徒たちと一緒にいてはいけません。その生徒たちを使えば「一緒に暮らしているから優遇されている」と周囲から見られます。彼らは遠くから習高を希望して来るわけだから、当然強い志と高い能力の生徒が多いわけですが、他の生徒たちと平等に接したいためにやめました。顧みると20年間、本当にたくさんの生徒たちと一緒に生活しました。まさに野球尽くしの日々でしたね。

――椎名勝さん、ありがとうございました。

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