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習志野の「アシザワ・ファインテック」が120周年 習志野を働く人が集まる街に

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「アシザワ・ファインテック」会長・芦澤直太郎さん

「アシザワ・ファインテック」(習志野市茜浜1)が6月で120周年を迎えた。会長の芦澤直太郎さんに話を聞いた。

 1903(明治36)年に曽祖父が東京・月島で創業。大正時代に会社設立し蒸気機関車に挑み、昭和の戦時中は軍需工場として軍艦用の砲台部品や鉱山用の人車などを製造した。

 現在は「ビーズミル(媒体攪拌ミル)」、微粉砕機・分散機の総合メーカーとして知られる。ビーズミルは物質をより細かくする機械のこと。スマートフォンや電気自動車に使われるリチウム電池、タブレットやスマートフォンの液晶画面や電子部品、ボールペンやプリンターのインク、化粧品などの生産に使われており、「現代の生活を維持するうえで必要不可欠な技術」だという。

 

ビーズミル

―――いつから粉砕機メーカーとしてやっていこうと決めたのでしょうか?

芦澤さん(以下、敬称略):長い歴史ですので、紆余(うよ)曲折、いいことも悪いこともありましたが、粉砕機に集中しようと舵を切ったのは1981(昭和56)年で、3代目社長で父の直仁(なおひと)の時です。当時、私は入社前でした。以前は蒸気機関車や、化学コンビナートに納めるような大きな設備を作るなどしていました。高度成長時代の日本の産業は重高長大「厚くて、長くて、大きい」みたいなものを作るのが主流でした。

そんな中、父は非常に勘が良い経営者で、「大きな機械ばかり作っている中小企業なんて存続が危ない。身の丈に合った、もう少し小さいもの、代わりに付加価値が高く、性能の高い装置を作る必要がある」と言っていました。

大きな機械は営業するのも大変ですし、作る場所も広いスペースが必要。売れたら契約後、材料を仕入れて人件費を払い、作って初めてお金が後からもらえる訳ですから、そうすると資金繰りだけで考えても、大きなものを作るのはしんどいと。そこで切り替えることになり、さまざまな機械を試してみたのですが、結論として、この粉砕機でいこうとなりました。結果的に当たったという要素もありますが、父に先見の明があったのだと思います。

 

―――「ビーズミル」

湿式ビーズミル「ビーズミル」
セラミックス等でできた「ビーズ」を用い、その衝突や摩擦(せん断)の力によって、粒子を細かくする装置。空気中で細かくする乾式と、水や溶剤などの液体と混ぜて細かくする湿式に大別される。

 

芦澤:最初は細かくするために、力づくでエネルギーを投入してたたいてしまえという発想でした。それだと一度は細かくなるのですが、後でまた元に戻ってくっついてしまうという問題に直面しました。それで同じエネルギーを加えるにしても、一度にドカンとたたくのではなく、優しく、こちょこちょとくすぐってあげるというか、ほぐしてあげるような…。北風と太陽じゃないですが、そういう機械を開発すればいいのでは、と社員のアイデアがあり、そしたら本当に元に戻ってくっつくことがなくなりました。あれは発明でした。

芦澤:人間は地球環境を犠牲に、自分の首を絞めながら発展してきました。これからは少なくとも『悪化させない』という前提の下、便利で豊かな生活を人類が享受しながら地球環境とどう両立していくか。これは当社に限らず、全人類のテーマですが、それでも必ず新しい品物が世に出る。その時に、『実は、物は作る時に粉からできている、その粉をどれだけ小さくできるか、細かくできるか、均一にできるか』が求められます。廃棄するときにも、細かくすればするほど地球環境に与える影響は小さくなる。未来の地球のためにも当社が『細かくすること』に取り組んでいかなければなりません。


―――アシザワ・ファインテックと習志野

1990(平成2)年、東京から習志野に本社を移転する

―――移転から33年がたち、昨年は習志野商工会議所会頭に就任されました。すっかり習志野の企業の代表のイメージがあります。

芦澤:私は生まれも育ちも東京なので、「他所からきた新参者」の意識がありました。ただ30年たって、いつまでもその意識ではいけない、他所者だと遠慮する必要もないし遠慮してはいけない、と改めました。 

2003(平成15)年、今からちょうど20年前に会社の中身を大きく変え、第二創業を断行しました。今でこそ本当に自慢できる技術がたくさんありますが、当時はバブル経済が弾けた後の長い低迷の期間で、実は倒産寸前でした。

―――2003年は芦澤さんが社長に就任されて、すぐですね。

芦澤:事業を再生させるために大胆な改革をやる必要がありました。その時に私も「本当は東京だけど親にくっついて千葉まで来た」という意識がある限り、絶対に会社は良くならないと思いました。私の個人的なアイデンティティーが東京なのは紛れもない事実ですが、仕事は『習志野の会社だ、千葉の会社だ、千葉から世界に向けて先端技術を発信するんだ』と覚悟を決めました。

アシザワ・ファインテック

―――会社を立て直すために地元に根を張ると決めたのですね。

芦澤:それから周りの風向きも変わりました。地元の千葉工業大学や日大生産工学部の学生が入社してくれたり、習志野や千葉県の行政の方から応援や支援をいただいたり、そのおかげで業績もⅤ字回復することができました。

芦澤:父が始めた粉砕機の会社を受け継ぎ、せっかくやるからには、世界トップだと認められるような技術や高い満足度を提供できる会社にしなければ先祖に対しても申し訳ありませんし、地域に対して貢献できる会社になりたいという思いがありました。2003年が100周年でしたが、100年続いたことはもちろん立派ですが、私自身が100年間やってきたわけではない。私にとってはこれから社長になって、未来に向けて頑張れよというタイミングでもあったので、過去100年間を自慢する会社ではなく、次の100年に向けて頑張っていることに対して自慢できる会社になるべきだ、その思いで社内も変革して今があります。

 

―――会社が変革した理由の一つに習志野に根を張ったことを挙げましたが、芦澤さんから見て習志野はどんな街ですか?

芦澤:10年前に習志野商工会議所の副会頭になってから気づいたのは、皆さん、仲がいいというか、まとまりが良い。何かあると行政や企業が密なのですぐに集まったり、意見交換ができたりする環境が整っています。他の地域の話を聞くと、そうでもないところが結構あるそうです。文化面でも音楽とスポーツを、今日も習志野高校もありますし(インタビュー時習志野高校が千葉県高校野球県予選準決勝直前)、全国に有名な吹奏楽部もある。市民が一つになれる街の資産があり、これが若い人たちの力で受け継がれていることはとても誇りに思います。

芦澤:そのうえで我が街、我が郷土、習志野となるために忘れてはいけないのは、働く場所としていい会社がある、いい職場がある、だから習志野でみんな働いて、収入を得て、家庭を持って、子どもを育てて、子どもが大きくなって、またそこで働けるという循環ができればいいと思います。せっかくいい大学もあるわけですから。商工会議所としては、住みやすい街の要素に働きやすい職場があるということは、習志野が文教住宅都市であるための車の両輪だと考えます。そうじゃないと、みんな東京に行ってしまう。当社があるエリアは習志野市でも企業が多く集まっているので、ここから「習志野で働くこと」をもっと発信していきたいですね。

 

 「アシザワ・ファインテック」会長・芦澤直太郎さん<プロフィール>
芦澤直太郎(あしざわなおたろう)
1964(昭和39)年生まれ、東京都出身。38歳でアシザワ・ファインテックを設立して社長に就任し、今年5月、会長に就任。昨年から習志野商工会議所会頭を務める。 
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